方言と言葉について
私は18歳の時にふるさとを出て、関東で暮らしたり関西で暮らしたりして、今は東京で暮らしています。18歳からはいつどこにいても標準語でしゃべってきました。練習したわけではないけれど、自然と標準語をしゃべることができました。でも、ふるさとに帰り同郷の人と話すと、すぐに方言になります。東京にいても同郷の人と話すと、すぐに方言になります。この時は標準語まじりの変な方言になっています。
方言で話す時に思うことは、そして、とくに最近強く思うことは、方言を使っている自分はとても居心地が悪く、ほんとうの自分ではないような気がします。標準語で感じ、思い、考えているのに、口から出る言葉は方言になっている。相手に対して自分がうそをついているようで、自分に対してもうそをついているような気がします。心と言葉が一致していない、ちぐはぐで、ばらばらな感じがします。
詩や文章を書く時に、私は標準語で考えて標準語で書いています。それが一番自然です。子供の頃も今も変わりなく、ずっとそうです。
生まれ育った言葉が方言だとしたら、生来、私に備わっていた言葉はこの日本語なのではないか。自分でも頭のなかの構造がどうなっているのか、よくわかりません。さらにこれに外国語が加わると、よけいにわけがわからなくなります。いつどこにいても自分の内と外とが一致した言葉を使うことができたらいいなと思います。
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コメント
こんばんは、chiikoさん。自分は19歳。東京に来てから標準語を練習しました。ひとりこっそりと。それくらい言葉にはコンプレックスがありました。最初は上手くできなくて、悩みました。同郷の人がいると上がったりして、さんざんでした。郷里に帰って家族と話すとやはり、すぐ秋田弁になります。でも隣にカミさんとか息子がいるとchiikoさんと同じでへんな言語障害みたいにうまく言えなくなります。
今は確かに標準語でものを考え標準語でなします。chiikoさんと同じでその方が自分にあってる気がします。秋田弁は汚くてしかも言葉足らずという気がします。それもさることながら秋田ではみんなあまり口を開かないような気がします。たとえば、秋田弁には挨拶がない。おはようとかこんにちはとかこんばんはとかにあたる言葉がない。だから誰も挨拶しない。挨拶したとしても、「おー」とか「あー」とかそんな感じ。だから改まって挨拶なんてすると、はずかしくてたまらない。父を呼ぶときは「と〜」。母を呼ぶときは「か〜」という感じ。何回も何回も母を呼ぶとカラスと間違えられた笑い話もあるくらい。これは国語の教科書にも載ってましたが、「どこへ行く?」「お風呂へ行く」というのを秋田では「どさ?」「湯さ」ですませてしまう。そんなこんなで自分を表現するにはすこぶる不便な言葉だとおもいます。どちらかというと、自分を隠すのに適当な言葉かもしれません。なんで、今の自分にとっては標準語がやはりしっくりくるかな〜。でも秋田弁も捨てたものではありません。なかには素朴で愛情あふれた言葉もたくさんあることは確かだと思います。たとえば数少ない挨拶。「じゃまた」は「せば」「へば」「せばな」なんて、また会おうという感じがすごく好きです。名詞では「目」のことは「まなぐ」。「つらら」は「たろんぺ」。これは傑作だと思います。俳優の山谷初男さんや浅利香津代さんの秋田弁は芸術てきだと思います。
投稿: face | 2004.10.21 19:52
faceさん、こんばんは!
faceさんのこのコメント、すばらしいです。1つの記事になってます。
faceさんにとって言葉はコンプレックスでもあったでしょうが、とても大切なものなのでしょうね。
秋田ではみなさんあまり口を開かないのですね。挨拶がないってすごいですね。もしかしたらからだとか表情であいさつしているのかもしれませんね。
自分を隠すのに適した言葉というのは、もしかしたら私に向いているかもしれません。これは新たな発見です。私の日常会話って、文ではなくて、単語の羅列が多いです。幼稚語なのです。
きのう教えていただいた「せばな」ってフランス語みたいでいいなと思いました。文字で見ただけでもそう思うのですから、実際に耳で聞くともっとフランス語みたいに聞こえるような気がします。「せばな」は通り一遍の「いつか会おう」じゃなくて、本当にまた会いましょう、会いたいねという気持ちがこもっている気がします。「どさ?」「湯さ」もいいですね。「と~」「か~」も。
コメント、トラックバックありがとうございます。せばな!
投稿: chiiko(faceさんへ) | 2004.10.21 20:36
chiikoさん、お久しぶりです。
方言という文字につられて?コメントしてます(^^ゞ
自分は、19歳の時に関東に出て、それから7年間ほど過ごしました。
その後、郷里に戻ったわけですが、関東にいる間も、機会が
ある度に方言はしゃべっていました。
当然、学校へ行ったり会社に行ってたときは、標準語で
しゃべっていたわけですが、自分としては、標準語を話している
自分は、自分じゃないような錯覚にとらわれることがしばしばでした。
なんていうのか、その時の気持ちにぴったりの言葉が標準語では
思い浮かばないということがよくあったのです。
とっても暑いときとか、寒いとき、疲れているとき、そう言ったときに
その時々にあった副詞が「すごく」とか「ちょー」ぐらいしか
思い浮かばないんです。
しゃべり方で、多少は表現できるんでしょうが、「おおの」だとか
「げに」、それから「しょー」、あとは「まっこと」、
すごーーく暑いなんて時は「おーのげに暑い」とか。
お茶なんかの時は「こじゃんち熱いき、気をつけよ~」とか(笑)
Jukulaにとっては、やっぱり生まれ育ったとこが一番!って
ことですかね。
投稿: Jukula | 2004.10.23 15:09
Jukulaさん、こんにちは!
つられてコメントしてくれてどうもありがとう~
Jukulaさんも標準語経験があるんですね。
私もよ~く考えてみたら、標準語をしゃべり始めたころは、標準語を話す自分に違和感があったのだと思います。多分いろいろな葛藤があったのだと思います。
長い年月を経て、今ごろになってやっと標準語を話す自分が自然な感じになってきたかなと思っています。
方言と標準語は私にとってずっと大問題で、このような記事を書けたこと自体が驚きなのです。
やっぱり環境って大きいのかなと思います。
でも、いまだに語尾に「さ」をつけることはできません。
私独自の標準語をしゃべっている感じです。
Jukulaさんの方言も多彩ですね。
やっぱりふるさとの言葉は温かいです。
私もふるさとの母親と話すときには心の底からくつろいでいます。
では、また!
投稿: chiiko(Jukulaさんへ) | 2004.10.23 17:31
とても面白い話なので、ついついコメントしてしまいます。
わたしは学生時代に関西にいました。連れというか友だちというか同級生の連中が、京都・大阪・広島・九州だったので、やつらの方言に負けてしまうんです。わたしのつかっている岐阜弁(濃尾弁)って、弱いんです。弱いってのには、歴史があって、このあたりは関が原の戦の頃から東と西のようすをうかがいながら「どっちにつくかね」と、自己主張するより強い者に巻かれることで処世する術を身につけてきているので、方言も弱いんです。
「ほいじゃけ、おまえんところはダメじゃ、言うとろうが」とか
「ほやけの、こうせなあかんち、言うちょったんよ」とか
言われて暮らすうちに、わたしの岐阜弁はやつらの西日本弁に染まっていってしまったのです。
その土地に入って暮らすとき、やはり「郷に入りては郷に従え」ということがあって、土地の人とおなじ言葉をはなすと接近できるということがあると思います。それに言葉って生き物なので、そこの人たちと同じ言葉を使ったほうが的確に意思疎通できることもあると思います(とくに会社の中などがそう)。でも、あるていど理解しあえたら、自分のルーツを主張する意味で、方言をつかったほうがいいとわたしは思っています。
岐阜弁の面白いのには「まわしする」というのがあります。
「ちゃーっとまわしして、出かけよかね」
って使ったりするんですけど…
投稿: ひかりごけ | 2004.10.23 21:56
ひかりごけさん、おはようございます!
興味深く、コメントを読ませていただきました。
方言が方言に負けてしまって、西日本弁に染まっていくということ、よくわかります。
結局、私が方言を使わずに標準語を使うようになったのも、私の方言がマイナーで弱いからなのです。
ただ、これも単に方言のせいだけではなく、私自身の弱さにも関係していて、ルーツに対する私の複雑な思いから発しているものなのです。ここのところは複雑過ぎて、うまく言えませんが。
おっしゃるように言葉は生き物ですね。
私がかつてどこにいても違和感を感じてきたのは、言葉の問題もあったのだろうなと思います。
もしかしたら同化したくないと心の底で思っていたのかもしれません。
人と理解し合うことと自分のルーツを主張すること、この2つはとても大切なことだなと、ひかりごけさんのコメントを読んで気づかされました。
どうもありがとうございます。
「ちゃーっとまわしして、出かけよかね」って、意味が全然わかりませんでした。今、ネットで調べてなんとなくわかりました。いつかこの言葉もじかに聞いてみたいものです。
では、また!
投稿: chiiko(ひかりごけさんへ) | 2004.10.24 09:04