川上弘美さんの『パレード』を読みました。『センセイの鞄』の続編というか、パラレルワールドというか、センセイとツキコさんのもうひとつの物語です。夏のある日の午後、昼寝後のまどろみのなか、ツキコさんがセンセイにゆっくり物語る「昔の話」です。ほんとうにあったのか、なかったのか、よくわからないような、お伽話のような話です。
小学校時代、ツキコさんにはゆう子ちゃんという同級生がいて、ゆう子ちゃんはいつの間にか仲間はずれになっていきます。
「だんだん仲間はずれがひどくなっても、ゆう子ちゃんは、絶対に泣いたりしませんでした」。
ツキコさんは「ゆう子ちゃんと目をあわせないようにして、すみっこの席に座っていました」「わたしは無意識のうちにゆう子ちゃんを避けていたのでしょう。どうしていいか、わからなかった。そして、なんだか、怖かった」。
『パレード』を読んでいて私が強く心を揺さぶられた部分があります。
「突然、わかってしまいました。ゆう子ちゃんは、何かをあきらめたのです。悲しいとかくやしいとか、そういうのを捨てていたのです。祖母が息をするのをやめたのと同じように、ゆう子ちゃんは感じるのをわざとやめてしまったのです」。
私も小学校時代に似たような経験があったので、その頃のことを思い出しました。ああ、あの頃の私と同じだなと。私も決して泣かなかったけれど、周囲には何も言わなかったけれど、そんなふうにしていたことがある。感じるのをわざとやめて、自分の中に滝ごもるみたいにして引きこもって、時が過ぎていくのをじっと待っていたことがある。
「感じることをわざとやめてしまう」というのは、かけがえのない自分を守るための防御本能のようなものだったのでしょう。
似たようなことは大人になってからもやってました。人間関係でときおり心痛む出来事に遭遇したときには、そんなふうに滝ごもって時が過ぎていくのをじっと待ちました。『パレード』を読みながら私は自分の弱さや強さやらを思い、自分がとてもいとおしくなりました。
私はサイドストーリーというものがあまり好きではありません。小説の世界はそれ単独でずっとそのまま完結していてほしいと思うからです。『センセイの鞄』のもうひとつの物語『パレード』の存在を知った時には、読むか読むまいかすこし悩みました。せンセイとツキコさんが昼寝したり食事したりする場面は妙にリアルでなまめかしく、こういうことは想像のなかにとどめておきたいと思う一方で、ふたりはこんなふうに淡くはげしく日常を生きていたのだと知ることにもなったので、読んでよかったと今は思ってます。
なにより『パレード』というすばらしい小説に出会えた喜びのほうが大きいです。『パレード』は単なるサイドストーリーではなく、これ単独で完結した「パレード」の世界なのです。
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